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2020年7月27日 (月)

無関心(600字のエッセイ)

昼、さして混んでいない電車に乗る。座ることができた。

あたりを見わたす。

昼間の乗客は老若男女さまざまだ。ほとんど全員がスマホを熱心に見ている。次の駅から乗り込んできた人もすぐにスマホを取り出し画面に集中している。

 

あたりを見回して、どんな人がいるかなどということには全く関心がない。私はそれに違和感がある。ちょっと不快である。

電車の中は一つの室内空間だ。

縁もゆかりもない人たちがそれぞれの目的地に着くのを待っている。無縁といえども、わずかな時間にせよ、一つの空間に居合わせた人たち。それがどんな顔ぶれなのか、どんな様子をしているか、まったく関心を持たなくていいのだろうか。

 

走る電車の中では突然に何が起こるかわからない。急停車!脱線! 突然に不審者が暴れることだってある。そんな緊急時に、助けが真っ先に必要とするのは誰だろうかとか、私より壮健そうで、手を差し伸べてくれそうな人はいるか。

そこまで事前に考えるのは大げさかもしれないが、袖振り合うも他生の縁。周囲を見わたしておいた方がよくはないか。

 

令和2年2月25日、コロナウイルス感染症対策の基本方針が発表された。

今ここ1、2週間が極めて重要な時期を迎えているという。電車内の様子は少しは変わるのだろうか。マスクをしている人の割合は? 

それより、電車に乗ってスマホを取り出す前に、安全を確認しようとして車内を見わたす人がはたしているのだろうか。

 

(注)

このエッセイは2月に書いたものだ。

車内のマスク着用は100%だが、スマホもほぼ100%。かわらない。

 

最近の出来事 アクアラインの先、館山道で新しい渋滞が発生している。

Dscn5880thumb1

渋滞は天気の良い休日の午前中だけだが、館山道下り、君津ICをこえて、竹岡IC手前のトンネル手前が渋滞することがある(写真)。今年3月、君津―竹岡間が1車線だったのが、長い工事期間のあと複線になった。その先が1車線になるための渋滞である。快適に走れるようになったための渋滞、やむをえないことだが、ちょっとがっかり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年7月15日 (水)

菜園の盗っ人(600字のエッセイ)

よく間違えるのだが、日本で初めて宇宙に行ったのは毛利衛さんではない。

秋山豊寛さんだ。TBSを退社して福島で無農薬野菜をつくっていた。(今は京都府在住だが)

私とほぼ同世代、そのエッセイを読んで共感するところが多かった。「イノシシの被害に遭って、アタマにきた」「棒を持ってイノシシを追い回した」とエッセイにある。

自然志向で山間部にはいった元宇宙飛行士が、逃げ足の早いイノシシを必死に追っている図を想像して、笑ってしまった。

自分にも笑えない事態が起こった。

私の畑にもイノシシが現れた。柔らかい土を掘り返えされている。根菜類ばかりでなく地中のミミズも狙いらしい。サツマイモがよくできて、もう少しで収獲という時に盗っ人に完膚なきまでに食いつくされた。

自分のイモをやられて、初めて彼の気持ちがわかった。ケモノ除けのネットを張る。太い竹を支柱にしっかり埋め込んだが、ばっさりと押し倒された。

秋が深まると救いの神が大挙して現れる。我が家のまわりには軽トラックが有に10台以上。ハンターたちである。お茶や菓子を用意して迎える。勢子たちが猟犬とともに山に登り、一斉に下る。飛び出したイノシシを待ち伏せているハンターが撃つ作戦だが、成果は何回かに1回。これも効果少なし。

電気柵を設置した。大枚5万円を投じて。人工的な菜園になって気に入らないが、効果は今のところ確かに利いている。

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写真は ノウサギ除けのネット。

順調に伸び始めたサツマイモの苗。

3年前このくらいまで育てて上手くいっていたところを、すっかりノウサギにやられた。今はイノシシ柵と二重になっている。

2020年7月 5日 (日)

無言の行(600字のエッセイ)

 

無言の行 (660字のエッセイ)       

 

この頃一人で千葉の菜園に出かけることが多くなった。野菜を育てていると出来れば毎日、少なくとも週に一、二日は面倒をみないとならない。それに連れ合いが同行できなくなった。義母が高齢で介護が必要となり、泊りがけで実家に行くことが多くなった。

単独で出かける。昼間は充実している。畑仕事はやりだせばきりがないし、炊事、洗濯などもやっていると、テレビなど見ている時間はない。

 

そもそも田舎にはテレビがない。東京方向に山を背負っているのでアンテナを立てても映りが悪く置いていないのだ。近年、フレッツ光が来てテレビも見られるようになったが、テレビに捕らわれた生活をしたくないので引き続き置いていない。

一人暮らしの老人の多くはテレビが話し相手である。話かけてくるのはテレビの方ばかりだが、テレビに向かってうなずいたり、笑ったり、時に腹を立てたりしている。テレビが最も親しい友であり、テレビがなければほとんど一日無言の行である。

 

私は、無言の行でいいかなと思っている。静寂な時間が流れ、何ものにも邪魔されずに、もの思いにひたることができる。

そんなとき自分にとって、今、最も大切なこと、これから大切になることは何なのかを考えることが出来る。

もっとも“出来る”ということと、少しはマシなことが考えられている、ということはまったく別のことだが。

Dscn5766

 

 

タイトルが「無言の行」で写真が“くちなしの花”というのでシャレになっている。たいしたシャレではないが、7月、今の季節の花ということで

 

2020年7月 2日 (木)

どう致しまして(600字のエッセイ)

 

テレビは「食」の番組ばかりだと、以前に書いたことがある。

コロナ自粛で外出の機会が減り、ますます食番組が増えた。ひとつ気になることがある。それは食番組ばかりに限らない。特に新型コロナの解説・啓発番組に多い。治療にあたっている医師、感染医学の研究者、統計学者などの専門家が番組に呼ばれる。

ひとわたり解説が終わりそうになると、司会者が「有難うございました」と引き取る。すると招かれた専門家が、同じく「有難うございました」と返す。その専門家の「有難う」が私は気になるのだ。司会が感謝を述べるのは、多忙な専門家が局に出向き、あるいはリモート出演だったにしても、貴重な時間を割き、専門の見識を述べて頂いたのだから、当然である。

実は、司会の「有難う」には「ここでアナタの出演は終わりました。次のコーナー行きますので、アナタ捌(は)けて下さい」という意味もあるのだ。

それに対して専門家が「有難うございました」と丁重に返すのは、何かヘンだ。そんなときの慣用句は「どう致しまして」である。「こんなものでお役にたてたかな」という意味で「どう致しまして」と応ずるのが真っ当ではないか。

「どう致しまして」が何か上から目線の言葉にとられ兼ねないのを避けて、全く使われなくなったのだろうか。

「有難うございます」「有難うございます」のやり取りには何か違和感がある。私だけだろうか。

 

 

ご無沙汰のお詫び

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20143月からブログを書いていません。

もうブログも消えてしまったと思っていたら、まだありました。

いつのまにかスマホでも見られるようになっていました。

 

8年間も更新していないので、ちょっとリホームが必要です。表紙デザインは変えましたが、古い記事は一部修正が必要です。

おいおいやっていきます。

 

トカイナカをタイトルにするHPも増えました。

「トカイナカのすすめ」というタイトルのも2つあります。一つは東京狛江市の発の、もう一つは千葉県木更津市。ライバル誕生です。歓迎します。お互い頑張りましょう。

 

当方のは、(トカイ+いなか=快適生活?) というのが続いています。

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白い花がクリスマスローズ、家では6月でも咲いています。

青いのはセージ、香りもいいですが、色が気に入っています。

 

 

 

 

 

 

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