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2008年4月 9日 (水)

600字のエッセイ

一瞬の躊躇            

 すばらしい古民家の売り物があった。今から十年ほど前のことである。
 そのころ私は田舎暮らしを志向し、必死に終の棲家を求めていた。クラシックで堂々とした建物、それでいて圧迫感がない、となると日本古来の民家だ。

 毎日不動産広告を、目を皿のようにしてさがしていると、「あった!」500万円。茨城県美和村。「走れ!」私は会社を休み、常磐道を走った。都心から車で2時間。古民家は本当にあった。間口9間、奥行き4間。築年代は不詳だが、大黒柱、梁はあくまでも太く、黒光りしている。南向き500坪の土地。菜園あり。いままで見てきた中で最高の物件。

「よし、これだ!」不況時でも、掘り出し物件の出足は早い。一番に申し込まねば。不動産屋と別れてから、追っかけ電話を入れた。
 が、電話のナンバーを押す指が、止まった。

 ひとつだけ気がかりがあったのだ。物件のすぐそばに一枚のカンバンがあった。
 「路面凍結の恐れあり。注意」
 茨城県県北の山間地。近くに袋田の滝がある。滝は冬季凍結で知られている。当時私は、言うところの「男の更年期」であった。経験したことのない冷え性にひどく悩まされていた。「どうしよう」。カンバンを見て、ためらってしまったのだ。
 結局、日を置いてしまい、購入のチャンスを逸した。その後、あんないい物件には二度と出会わない。

 実は、田舎の家はどこも寒いのだ。今の房総の家でも、冬季には零下になることがあり、ストーブの火が落ちた朝など、めっきり冷え込む。しかし、私は苦もなく起きられる。冷え性は一過性のものだった。
 あのとき、カンバンを見なければ、一時的な冷え性でなければ、今頃古民家の主であったろうに。

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